日本の郵便は明治3(1870)年6月、幕末から明治にかけて前島密(1835〜1919)が政府に意見を述べて、翌明治4年3月に国営の事業として始められました。はじめのうちは東京―大阪の間だけで試しに行われましたが、その年の12月には、九州の長崎まで郵便の届く範囲が拡がりました。前島密が始めた郵便制度は、江戸時代から行われていた「飛脚便」に対して「新式郵便」と呼ばれました。そのわけは「いつでも」「どこでも」「誰にでも」「やすくて、簡単、便利」に利用できるという新しさにありました。わかりやすくいうと、(1)郵便物をどこからでも出せるようにポストを町や村に置いたこと。(2)郵便物を送る料金を払ったと言う証拠に切手を用いたこと。(3)切手を手軽に買えるように、ポストの近くに「切手販売所」をおいたこと。雨の日や風の日に関係なく(4)毎日、時間を決めて郵便物を集めたり配ったりすること。郵便物に書かれた(5)宛所に一軒一軒配達すること。その少しあとには、(6)全国均一料金制といって、日本中どこでも同じものを同じ料金で配達するという制度を行ったこと。(7)郵便の仕事を国だけが行うと決めたこと、などがあげられます。
郵便が行われるようになって1年後の明治5年7月には、早くも日本中に郵便が届くようになりました。昔の飛脚便は大きな都市の間だけで行われていました。このように一部の地域だけのものなら、それまでと変わりません。しかし、全国もれなく郵便を届けるという決まりを築いたことが「新式郵便」の新しいところでした。しかし、これを始めた当時から全国に郵便を届ける仕組みを築くことを目指していたものの、その資金は「収支相償」という、やりくりを用いなければとうてい実現は困難なものでした。「収支相償」とは、都市部などで出た利益を赤字の地域などに振り向けることを言います。
この難しい「新式郵便」を実現させたのは、今も続く日本にしかない郵便局の制度が大きな役割を果たしています。郵便の始まりの時、国で開いた「郵便役所(のちの普通郵便局)」は、東京、京都、大阪の三カ所だけでした。これだけではとうてい全国に郵便を展開するのは不可能です。資金のない中、なんとかこの制度を成功させることができたのは、「宿駅」と呼ばれる、交通の要所要所に設けられた「郵便取扱所(のちの特定郵便局)」の働きが欠かせませんでした。「郵便取扱所」は国の役所ではありますが、民間の人々の協力によって開設されたものです。現在では考えられないことですが、「郵便取扱所」の取扱人(のちの特定郵便局長)となり、国の行う仕事を担うことは、当時はお金に換えられない"名誉"と思われており、新しい国づくりに自らも力を尽くせることは、この上ない誇りであったのです。その名誉とひき換えに、各地の資産家、知名人が、名ばかりの手当で郵便局の開設と運営に協力したのでした。その協力とは、郵便局をつくる土地と建物を無償で差し出すという大変な負担をともなうものでした。
このような特定郵便局長による郵便局の土地建物を無償で提供する義務が取り除かれたのは、昭和23年(1948)年2月、また、特定郵便局長が一般職の国家公務員となったのは、同じく昭和23年7月のことでした。「儲かる、儲からない」ではなく、地域の発展や人々の生活の便利さに役立つためにと、民間の人々が財産をなげうって築いたのが特定郵便局だったのです。その特定郵便局長たちの献身的な協力が、世界中どこにもない日本の郵便局の広がりを築き、郵便局を社会生活に欠かせない存在として地域に根付かせたのでした。
このように歴史的経緯の中で、郵便局長とそこに働く職員は、国家公務員として国民に奉仕してきましたが、平成19年10月1日から郵政事業民営化法が施行されたことに伴い、郵便局長も職員も郵便局株式会社の社員となりました。
全国の郵便局の数は、平成20年3月末現在で約24,700局あり、そのうち約4,600局が、デパートや農協や商店などが郵便局の仕事を引き受けて取り扱っている簡易郵便局となっています。郵便局と郵便局の距離は、平均1.1キロメートルで、お年寄りでも子供でも郵便・貯金・簡易保険の「郵政三事業」サービスを簡便に利用でき、また、安心、安全のより所としての社会的役割を果たしてきています。 |